No Surrender  



 自然屈服って不自然な言葉だなと思う・・・。

 「自然屈服」は「ヤコブの勝利」の教訓が由来のメジャーな原理用語で、統一教会の典型的な勝利の方程式の一つでもあり、「条件をたてる」と2トップを組む位、教会内で好まれ非常によく語られ使われている。そして、相手(非原理※一般社会)に対する時の基本的スタンスというか、行動原理にまでなっていると思う

 しかし、ヤコブが行った「自然屈服」って、内容をよく見てみると、どう見ても、早い話が現代で言うところの『返報性の原理』中の、好意には好意を、恩を受ければ恩を返したくなる「好意の返報性」の心理を利用した、いやらしい計画的な詐欺的行為のことですよね。

 詐欺的行為が非常によく使われる宗教団体というのも珍しいと思うのだが、、、

 暴力で無理やり従わせるでもなく、権力による命令(根源は暴力ですけどね)でもないからって、よりによって詐欺的行為によって騙して陥れて屈服、服従させる行為を、「自然」と呼ぶのはいかにも韓国人らしい。
多分韓国社会では「詐欺」が「自然」なんだからと思う。

 また、「好意の返報性」の心理テクニックを使って相手の屈服を引き出す詐欺というのは、まず詐欺師が先に与え、尽くすので、「ウリの民族は徳があるニダ、徳による支配統治ニダ」という韓民族の馬鹿な妄想も満足させる効果もある。それが彼らを惹きつけるということもあるのだろう。

 人は見たいものを見る。詐欺師は詐欺の箇所に敏感に反応する。原理風に言えば、韓国人が強く「相対」できるのは、聖書のエサウ-ヤコブの物語の詐欺のその箇所だったということもある。そして「神様はウリ達と同じ詐欺師ニダ。「詐欺」は聖書のお墨付きニダ」と勘違いした可能性が高いと思う。

 韓国人にとって詐欺的行為は後ろめたさを感じる行為ではなく、むしろ賢いやり方として評価されているのではなかろうか。「自然屈服」というのは、そんな韓国人社会を反映して出てきた言葉だろう。

 つまり、統一教会で「自然屈服」=詐欺的行為が非常によく使われるのは、韓国発祥の宗教だから、というのがその理由なのだろう。


 「勝利」と言えば、原理には他にもう一つ「イエスの(宗教的犠牲心による)霊的勝利」というのもあるのだが、統一教会はこれを捨ててしまっている。
 それは、文教祖自身が自分を際立たせるためだろう、前任者イエスを貶め、ほとんど失敗者の烙印を押して否定をして、不当なまでに低く評価しているからだ。
そこには文教祖自身の、イエスに対する対抗心や嫉妬心が関係しているのではなかろうか、と推測する。
教祖自身がそうであるから、一般信者の誰もが「イエスの霊的勝利」に対して無関心なのだ。
だから、統一教会はキリスト教の、特にイエスの、雰囲気がほとんどしていない。
 「イエスの霊的勝利(宗教的犠牲心)」は無視し、「ヤコブの自然屈服(詐欺)」を行動原理として採用しているから、社風?教会風?がヤコブ風欺瞞になっていて、実践の場もヤコブ風の詐欺的行為が普通になっている。
 嘘ついて壺買わせたり、嘘ついて家売らせたり、嘘ついて募金したり、嘘ついて伝道したり、嘘ついて清平で献金させたり、嘘ついて告白文書かせたり、・・・etc.嘘で騙すことが当たり前になっているのはその為だ。

 統一教会というのは外面はキリスト教だが、内実をみれば正に「ヤコブ教」と呼ぶほうがふさわしくなっている。



 ちなみに、Wikipediaには、エサウ-ヤコブの物語の結末が載っているが、そのこと自体が何か暗示的な気がする。

エサウ – Wikipediaより引用します。


[その他]
 創世記ではエサウの最後は述べられていないが、旧約聖書偽典ヨベル書では述べられている。創世記同様、エサウは一度は弟ヤコブと和解するものの、息子たちに長子の権をヤコブに奪われた事を批判され、ヤコブとその一族への復讐を催促される。
 エサウ本人は始め、そのつもりはまったく無かったが息子たちにせがまれるうち、次第に弟への憎悪がよみがえり、一族を率いてヤコブとのその家族に襲い掛かる。最後はヤコブに矢を放たれエサウは死亡する。ヤコブは兄を埋葬し、エサウの一族はヤコブの一族の奴隷となる。


(傍点は引用者)

 エサウは心底ヤコブに屈服していなかったことがわかる。
詐欺によって人間関係が築けるわけがないのだ。

 また、スウェーデンボルグによれば、


『そして天使たちは明言した。
「信頼とか信任といった、どんなすぐれた言葉を使って生前、信仰を表明したとしても、邪悪な生活を送った人びとが無条件的な慈悲によって天界に迎え入れられたのを、私たちはこれまで見たことがありません」
「アブラハム、イサク、ヤコブ、ダビデ、また使徒たちについてですが、彼らは無条件的な慈悲によって天界へ迎え入れられたのではないですか」
という質問があったので、天使たちはそれに答えた。
「彼らのうち誰ひとりとしてそのように迎えられた者はありません。みな各自の現世での生活に応じて迎えられたのです。私たちは、彼らがどこにいるかを知っていますし、また彼らはもう他の人びと以上に尊ばれていないことも知っています。聖言では彼らの名前が敬意をもって挙げられていますが、それは彼らが内的な意味において主を表しているからなのです。『アブラハム、』『イサク』『ヤコブ』は、主の神性と主の神的人間性とを意味し、『ダビデ』は主の神的王者性を、『使徒たち』は主の神的な諸真理を意味します。また聖言が地上の人間によって読まれるとき、私たちは今挙げた人物についてどんなことも感じとれません。これらの人物の名前は天界に入ってこないからです。私たちが感じることは、今述べたような主の性質です。そのため、天界に存在する聖言の中には彼らの名前はどこにも見あたりません。天界の聖言はこの世の聖言の内的な意味に相当するものだからです」』


(スウェーデンボルグ「スウェーデンボルグ天界と地獄 高橋和夫」より引用)

ヤコブ-エサウの出来事は「内的な意味」を持つものであり、二人自身の霊的生命にとっては重要ではないことがわかる。

 統一教会のQ&Aのサイトでも、旧約時代はあくまで「象徴」ありで真に受けちゃいけない、と説明してたりする。そりゃそうだろう。モーセなんか一体何人人殺してるのかということになる。

 つまり、「ヤコブの自然屈服」は詐欺的行為であり、本来内的、象徴的意味としてとらえるべきもので、長い目で見れば失敗するのだから、本来は使っちゃいけないものなのではないですか?
それを韓国人が「相対」して使ったということではないですか。

 大体、本家本元の文教祖自身が、自分の一番近しい奥さんや子供すら「自然屈服」出来ていなかったことがわかり、やっぱり失敗したんじゃないですか?現状を見れば説得力ありませんよ。

 また、短気で自己中心的な傾向のある韓国人の文鮮明が選んだ、手っ取り早く成果を上げられる詐欺的行為である「ヤコブの自然屈服」と、イエスの地味で成果が出るのに時間のかかる宗教的犠牲的精神の行動を比較すると、

「約60年で尻すぼみ」vs「2000年間以上の霊的影響力」

となりつつある。
 つまり、「詐欺」と「愛」の違いが、そろそろ結果として出てきているように思うのですが、どうでしょうか。



 Wikipedia –エサウ[その他]のページは「ヤコブの自然屈服による勝利」を教義として採用するカルト宗教の出現に対応して、ちょっとオカルティックですが、「何か」によってそこに記載されているのではないだろうか。
「エサウの悲劇の教訓」から学ぶべきことがあるというメッセージではないかっていう気がするのだが・・・。

 一般社会では「好意の返報性」の心理トリック(自然屈服)は詐欺師のテクニック、ビジネスのグレーな販売テクニックとして、結構広く知られているんじゃないかな。「一刀両断に断る」等の自衛の手段も認識されてきているように思う。

 だからこのエサウのページは、一般社会との接触はタブーだが、聖書関連に触れることは問題がない「統一教会員」向けにあるのではないの。

何か感じ取って欲しいなと思う。



※タイトルは、ブルース・スプリングスティーン「No Surrender」から。





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Posted on 2017/08/22 Tue. 22:24 [edit]

category: 原理批判

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ピグマリオン症  



 統一教会信者系のサイトを見てたりすると、特に男性信者と思われる人の多くはピグマリオン症に罹っているんじゃないかと感じる。
ピグマリオン症は、
「現実を説明するモデルでしかないものを、現実に存在する実態であるかのように錯覚してしまう人」
のことで、物理学や経済学などの研究者に対して忠告として使われていることが多いが、宗教者でも特に有効ではないかと思う。

現実と違っても数学モデルを信仰してしまう経済学者たち
(『自由貿易神話解体新書』 から抜粋)より長文引用します。

 ピグマリオン症とは、「現実を説明するためのモデルでしかないものを、現実に存在する実態であるかのように錯覚してしまう」という症状である。アニメキャラに恋をしても社会に迷惑は何もかけないのでよいが、経済学の専門家がモデルに恋をして、それを現実のものと勘違いすると、しばしば現実社会に著しい害悪を与える。それゆえ、学問的リテラシーの問題として、学問におけるピグマリオン症は戒めねばならない。

 新古典派経済学は、ニュートンの古典力学を模倣して構築された学問である。新古典派の創始者の一人であるレオン・ワルラス(1834~1910)は、ニュートンの力学モデルを数学的に精綴化したラグランジュ(1736~1813)の解析力学の体系を模倣して、その学問体系を構築している。これは誤った模倣であり、それゆえ、経済学は現実世界を正確に反映できないのである。

 ニュートン=ラグランジュの古典力学モデルは非常に美しい数学的体系を持っている。それはある範囲で驚くほど正確に現実を近似する。しかしモデルであって現実ではない。物質の質量が原子レベルに近づいていけば古典力学は成立しない。物体の速度が光速に近づいても古典力学は成立しない。前者は量子力学モデルの扱う領域であるし、後者は相対性理論モデルの扱う領域になる。他にもニュートン力学モデルは非可逆性を伴う熱力学的現象を説明できないし、電場と磁場の作用による電磁気現象も説明できない。およそモデルというものは、さまざまな前提の制約条件の中で、ある範囲で、現実世界を近似するに過ぎない。

 ニュートンの古典力学にしてもアインシュタインの相対性理論にしても、それぞれ物理学における一つのモデルである。それら全ては「現実世界」に接近するために考案された近似としての「モデル世界」である。それらのモデルは現実を近似するが、「現実世界」そのものではない。ある前提条件の下で、きわめて適合性の高いモデルと判断されるが、その適合範囲には限界がある。実験結果とズレできたら、「ここから先はこのモデルでは説明できない」と判断するしかない。しかしあまりにもモデルが美しいと、モデルを現実と勘違いしてしまうピグマリオン症にかかった学者が出てくるのである。

 一例をあげよう。ニュートン力学のモデルで、電気や磁気に関する現象を説明することは不可能であった。しかしニュートン流の方法論が全てにおいて適用可能だと考えた物理学者たち(たとえばアンペール、ガウス、キルヒホフなど)は、「電荷を粒子として、力は遠隔に作用する」というニュートン力学の方法論で電気や磁気の諸現象を説明しようとした。しかし、その試みは破綻した。彼らは理論の適用限界を知ることなく、ニュートンのモデル世界を信仰しすぎたピグマリオン症にかかってしまっていたといえるだろう。

 結局、電磁誘導の法則を発見し、電磁気学を創設したのは、学校教育もほとんど受けていない独学の大実験物理学者マイケル・ファラデー(1791~1867)であった。ファラデーは、十分な数学教育も受けていないことが幸いしたのか、ニュートン力学のような美しく体系化された学問のドグマに縛られていなかった。彼は、あくまで現実の実験結果に基づいて、自由  想像の翼も広げながら、新しい電磁現象を説明する「場の理論」を構築できた。ニュートン流の「力の遠隔作用理論」を破棄し、「電場や磁場という『場』の変化が近接的に作用する」という新しい理論で電磁気現象を説明し、それが成功したのである。

 当たり前のことであるが、物理学の場合、あくまでも実験・実証の価値の方がモデルよりも上である。モデルが実験に反すればそのモデルは誤った学説として棄却される。しかし、経済学においてはしばしば実証よりも数学モデルの価値が上とされる。現実の経済現象に実証的には反するモデルが、あたかも真理であるかのごとく大手を振ってまかり通っているのだ。これは科学を冒涜しており、単なる数学のお遊びと言うべきである。


(引用終わり)

 
 人間て合理的に説明されると弱いなと思います。
そして一度信じると思考にも慣性の法則が働くのだろか、なかなか考えを変えることができない。

  「世の中には二通りの人間がいる。知りたいと願う人間と、信じたいと願う人間だ」
                                        ニーチェ
信仰の場合、大事なものを多く捨て選択しているのだから、「信じたいと願う」に大きくバイアスがかかっている。

 彼らの教義(統一原理)に対する擁護は、自分に対する擁護なのだという事は、経験者ゆえによくわかる気がする。




Posted on 2017/08/09 Wed. 22:42 [edit]

category: 原理批判

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知力と天分  



 統一原理は文教祖が受けた啓示が始まりとされ、一瞬スピリチャルな雰囲気があるが、成立の経緯を見れば、人間の知力で作ったものというのがわかる(実質100%の人間の責任分担というものがあるんですよね)。
 その場合「理性は感情の奴隷である」(デヴィッド・ヒューム)といえるから、その人間(韓国人文鮮明)の感情-性格-深層心理が深く入り込んでくるのは避けられない。

 そして、確かマルスムに書いてあったと記憶しているのだが、文鮮明の感情の成熟は、青年期を過ごした当時の激動の時代背景(朝鮮の日本統治、共産主義の猛威、朝鮮戦争・・・)に強い影響を受けているのがわかる。
 つまり文鮮明もまた時代の子であって、当時の価値観、世界観が多感な文鮮明少年の感情の成熟に直接影響し、それが統一原理・思想の形成にあたって色濃く影響し、反映してきたことは間違いない。

 人は誰もが時代の影響は避けられないが、問題は文鮮明の原理は自己の様々な経験を蒸留させて、時代を超えた全人類に価値ある普遍的な思想にまで昇華させることができているだろうかということだ。
私ははなはだ疑問に思う。
 原理は基本文鮮明自己の個人的経験と韓民族の屈辱の歴史を重ね合わせ、それに対するアンチテーゼとして出発しているだけではないか。韓民族独特の「恨」の解消といえば聞こえはいいいが、世界に対する復讐の思想ではないのかという気さえする。
 その根拠は、原理講論ではメシヤ王国とかあやふやな言葉が載っているが、王国=文鮮明を中心とした時代錯誤の専制君主制を敷いて、そして選民の韓民族を中心に世界を支配統一とか、韓国語で言語統一とか極端な民族主義の肯定を語っているからだ。
 これは過去の歴史のバージョン違いなだけで、原理は覇権争いで勝者と敗者が入れ替わるごとに、支配と復讐を繰り返してきた過去の歴史の文脈を踏襲しようとしているだけなのだ。
 原理はやられたらやり返す、子供の喧嘩のような国盗り物語から一歩も踏み出せていない。

そこには、新たな天分を感じさせる普遍的な思想は何も導きだされていない。


  世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない 
   (宮沢賢治 農民芸術概論綱要 )

くらいの気概があるのかも、と最初統一教会に期待した。宗教的犠牲の精神でそれを達成するかもしれないと思ったこともあったが、間違いであった。
 韓国人の組織と、それに染まった人間にその様な話は土台無理がある。



Posted on 2017/08/07 Mon. 23:53 [edit]

category: 原理批判

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「真・善・美」  


 ある時(調整日だったか)何人かの姉妹と一緒にテレビを見ていた。
その番組のコメンテーターが「真・善・美」と発言すると一人の姉妹が「うわぁ原理的!」と言うではないか。
 また、ある兄弟は最近テレビで「心情」と言う言葉を聞くようになったのは、テレビ関係者に離れた兄弟がいて、教会が忘れられずに「心情」という用語を使わせているのだと実しやかに言ってたりする。しかも何故か自慢気に。


「目に見える世界は内なる精神的世界の開示であり、永遠の光と永遠
の闇から生じ、精神的織物から生じている。」

「目に見える外的世界の全体は、そのあらゆる存在者と共に、
内的な精神的世界の記号あるいは像である。内的なるものの中
にある全てのもの、およびその作用の様式、したがってまたその
性格もそれは外的にもっている。」
(ベーメ)

「人が自分の内面の考えや意志とは違った外面の考えからものをいったり行動したりすれば内面と外面は分裂して働く。自分の考えと意志のとおりにいったり行動したりする場合は両者は一致して働く。誠実な人間は後者のようにしているのに対し不誠実な人間は前者のようにするものである。心の内面と外面ははっきり違ったものなので内面は外面と争ったり、争いによって外面を組み従えたりすることもありうる。
人間は彼の内面の考えによって人間になっている。なぜなら内面の考えが彼の魂そのものだからだ。だから彼が自分の外面の考えを強制して自分の愛着の喜びに従わせようとしたりそれを受容れさせようとしたりする時には彼は自分自身をそう強制しているのは明らかだ」

「このことから神は人間である。また全ての天使も霊もその完全な形において人間である。これは天国の形から来ていることで、天国はそのもっとも大きな姿でも、もっとも小さな部分でも人間に似ているのだ。」
(スウェーデンボルグ)

・・・・・・・・・。

 創造原理の二性性相からの四位基台、回転もベーメの神秘哲学のパクリとは言わないけど、その思想の流れの中のものですよね。堕落の問題もベーメの無底(Ungrund)からの自由の問題を、多数の女性とSexがしたくて性(Sex)の問題にすり替えたのでは?と彼の人生をみて思う。

統一原理の全てがオリジナルとは思ってなかったけど、いろいろ知ってみるとオリジナルな部分はホント少ない。
「真・善・美」、「心情」どころではないのだ。

ウブだったなぁ・・・と思う。



Posted on 2017/07/27 Thu. 19:13 [edit]

category: 日記

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ベルリンの壁の石  



 先日部屋の片付けをしていたら、小さな透明のビニール袋に入った石を見つけた。
同封の紙に「Berliner Mauer muß weg」と書いてある。ベルリンの壁を壊したときの石だ。
確か東京の三越で販売していたものだ・・・



 1991年以前は統一原理で言うところの、サタン側の国家としてソ連などの共産主義国家があり、その軍事的脅威が現実にあった。
最終的にアメリカ自由主義陣営がソ連共産主義陣営に勝利したが、その時文教祖はそれをあたかも全て自分の手柄のように教会内で吹聴した。教会員に原理通りに事が運んでいると思わせた。誰もが文氏がメシヤで原理が真理であるからだと錯覚した。

現実はアメリカと反共の歩調を合わせお相伴にあずかっただけなのだが。

 1989年ベルリンの壁が崩壊すると自分をメシヤだと完全に勘違いした文教祖は、1991年11月30日から北朝鮮の平壌入りし、金日成主席らと会談したりしている。東西ドイツが統一されりゃ、原理的にいけば次は念願の南北朝鮮の統一と先走ったんでしょう。その後日本に入国したり、積極的な政治的活動を展開している。嘘を真にしようと必死な感じだ。政治がうまくいかなきゃ宗教活動で3万双の大祝福を始めたりする。
しかし、いかに原理的な既成事実(条件)を積み上げても南北朝鮮は統一されない。日本のせいにしても、わめいても叫んでも統一されない。

理由は誰でもわかる簡単なことだ。アメリカがまだそれを望んでいないからだ。

 文氏がメシヤは錯覚で、原理的な条件の力など妄想で、ただ単にその時より力のある大国の政治的な波の流れにうまく乗れているか乗れていないかが統一教会という組織の浮沈を分けているというのが悲しいかな、現実なのでしょう。



 ・・・28年前のベルリンの壁の石を見ながらそんなことを思った。



Posted on 2017/07/12 Wed. 20:29 [edit]

category: 小話

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