久し振りに分派活動をウォッチしてみると  



 現在は家庭連合、UCI(FPAなの?)、サンクチュアリ教会の三つですか。
鶴子、三男と四男、七男に割れて己が正義を主張し戦ってるみたいだけど、驚いたことに家庭連合は鶴子の無原罪説を受容れてしまってるんですね。まあ、組織のトップがそう言えば従わざるをえませんわな。
 これは私から見れば、将来に反日神学者が原理を悪用する芽が潰れたな、と思って喜んでいる。
だってあまりにも辻褄が合いませんもの。さすが韓鶴子女史!


 話は変わりますが、私の好きな作家の一人に池澤夏樹氏がいて、初期の頃の作品は結構読んだ。
最近はリベラルな立場を鮮明にされて、著作を読むことがあまりなくなったが、時々見かけるコラムなどを読むとその思想的立場は別にして、私ごときが失礼ですが、やっぱり文章上手いなぁと思う。
 その池澤さんのコラムでこういうのがあった。政治に対する批判・意見なのだが、これはそのまま、宗教創始者の二世、特に統一教会の二世にもあてはまりそうな気がする。

「まず政治家の二世三世というのがいけなかった。彼らは社会で汗を流した経験もなく、地位と資産の保全以上の理念を持たないのではないか。」

  これはそのまま現在の統一教会二世のことではないか?

 「アメリカでも二世議員が増えて、行く先を危惧する声が高まった。「あの人たち、自分が三塁にいるから三塁打を打ったと思ってるけど、違うのよ。三塁で生まれただけなの」などと揶揄された。」

  完全に自分に宗教的才能があると勘違いしてると思う、彼らは。

「ここ数代、日本の首相はみな三塁で生まれた人たちで、誰もホームベースを踏めなかった。全員残塁。」

  親が踏めてませんし(元々天宙復帰など掛け声だけで、出来るなど思ってなかったでしょう。そもそも、人間を支配するという目的がおかしい)、全員無理でしょう。

「小泉政権はあからさまなリバタリアン(自由至上主義者)だった。儲けられる立場の者はいくらでも儲ければいい、政治はそれを応援するという姿勢。好況になれば富は下の方まで流れてくるという、いわゆるトリクルダウン理論だが、これはまったく機能しなかった。下流で待っていても何も来ないという悲しい流し素麺。」

  どこかの統一教会分派組織に行けば、平信徒にも「素麺」は流れているのだろうか??
  どの宗教組織も、もはや完全に経済原理の下にあるというのに。

(池澤夏樹 終わりと始まり『「最小不幸」の原理・運の悪い人にどう手を貸す』 朝日新聞より)


 最近の三男と四男、七男の周辺の様子をみてみると、、、
統一教会の資産を巡っての裁判がどうのこうのとか、銃ビジネスのこととか、
霊界の文鮮明と、昔文自身がアウグスティヌスと祝福結婚させたはずの姜賢實と霊界結婚??
させたりとか、面白いことになっている。

 悲しいかな、どうやら世俗の政治家二世な対する批判が、そのまま聖いはずの宗教創始者二世、統一教会二世に対する批判としても通用するみたいだ。




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Posted on 2017/10/16 Mon. 22:23 [edit]

category: 教会批判

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献金のネット価格、グロス価格  



 統一教会では、激しい、大げさな、深刻な指示・命令・指導が多い。特に献金要請では多い。天下分け目の分水嶺、死なんとするものは生きる、全て捨てて、全て捧げて、、、。

 それは多分文教祖自身自覚あるだろうが、幹部はもちろん、世慣れた人は、それはブラフだとわかっている。「韓国人同士ではそんくらいキツくはったり言わないと動かんのだろ、それが普通なんだろ」「そうは言っても、まず自分の生活を確保前提の話だ」と理解している。
が、純粋な人、宗教(特にキリスト教)にウブな人、性善説オンリーな人、世界情勢や、会社の経理、数字に暗い人、要は世間知らずの人の中にはそれをまともに100%受け取ってしまう方がいるようだ。見てて非常に危なっかしく思った。食い物にされても最後は自己責任にされてしまうのに。

 統一教会にいた頃、ある販社の営業所の所長をやっていた時期がある。まだ20代だった。
ある時そのブロックの所長会議があり、どれだけ数字を詰められるんだろうかと緊張して参加した。すると会議もそこそこに切り上げ、後は食事会、慰労会になっていった。豪華な食事をし、スーパー銭湯?でゆっくりし、映画館で映画も見て、、、残って配達している年上の部下の兄弟に申し訳ないなぁという気持ちと、上に行くとこんな優雅なのか、いいなぁ・・・と相反する気持ちに少々混乱してしまった。そういや、私が若くして入教したということもあるが、超高級ステーキ店や本格的な都会の寿司屋、その他・・・に初めて行ったのは統一教会でだったなぁ。
地方の販社の所長会議でさえそうなのだから、更に上は、、、想像してみてほしい。

 下の立場の者が真に受けて、摂理にたいして天地が裂けるほど深刻な気持ちでおったところで、上は下を煽るだけ煽って後はいがいと優雅にやってるものですよ。例えば、統一教会の最低赤字B級映画『インチョン!』制作に関わった石○元社長などの話を聞いたことあるが、昼からロスアンゼルスの高級マンションでウィスキーを飲みながら「これぞハリウッドスタイル」なんて自慢してたっけ。最後までウィスキーの失言に気付けなかったみたいだから、飲酒は常態化してたんだろ。そんなもんです。幹部の子女は小さい頃からバイオリン習ってたり、金が掛かる医学部に入ってたりして、それを自慢したりしている。
そんなもんです。

 思うに、統一教会の献金要請額は、雑工諸経費、消耗品費、一人工(いちにんく)、人件費その他、マージンがとんでもなく大きくなってるグロス(総額)の見積もりなんですよ。おまけにその見積もりの諸経費の一部は実は遊興費、贅沢品費な訳です。
 当初それを大人の暗黙の了解で値引きされること前提でふっかけてきたが、純粋な日本人が多く、見積り額で請求すれば値引きなしで通ることが出来たことが続いた。で、それが常態化して、上げてしまった生活のレベルを下げることが出来ず、以後、神の摂理が文教祖家庭・幹部・責任者連中の贅沢を維持するための戦いにすり替わっていく・・・。

 もし、現役信者が献金要請額の見積書と内訳明細書を見ることが出来、ネット(正味)価格がわかれば献金する気が失せるに違いない。

  まだ、正気を保っていればの話だが。




Posted on 2017/10/14 Sat. 21:54 [edit]

category: 教会批判

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曲突徙薪  



 仕事上で相手先に早期改善・予防措置の提案をしても、受け入れてもらえないことが多々ある。こちらには危険が見えるし、事故の遠因になりかねなかったりするのがわかるので、丁寧に説明するのだが理解してもらえない。費用が一番のネックなのはわかるが、「予防は治療に勝る」し、費用対効果の面からも有利でもあるのになかなかわかってもらえない。

 で、曲突徙薪の故事のようなことが現実に起こる。

   曲突徙薪無恩沢 焦頭爛額為上客耶
   (曲突(きょくとつ)、薪を移すは恩沢なく、
   焦頭爛額(しょうとうらんがく)、上客となすや)

ある旅人が、とある民家の前を通りかかった際、煙突から火の粉が出るくらいかまどの 火が燃え上がっている様子を見て心配になり、 「煙突は屋根とは反対方向に曲げておいた方がいいですよ。それから、薪もなるべく煙突から離れた所に移しておいた方がいいですよ。」と助言しました。 しかしながら、その家人は、「うるさい。よそ者は余計なことを言わないでくれ」と、その親切な助言を無視してしまいました。 ところがその翌日、煙突から吹き出した火の粉により、屋根や薪に火がつき、結局、大火事になって しまいました。その大火事の際、その民家の前を通りかかった別の旅人が、頭を焦がし、 額を爛れさせながら消火を手伝い、活躍しました。 そこで、その家人は、後から来たその旅人を酒や料理で手厚くもてなしたといいます。      

                          投資戦略の発想法〈2010〉より引用                                               

 しかし、私は客側にたいして不満を持ったりできないなとも感じる。統一教会に在籍中、外部から批判も聞いていたし、内部の悪辣さも知っていた(曲突)のに、一向に方向を変えようとしなかった(徙薪)のは私自身ではなかったか。人のこと言えない。
私の場合、二度ほど大きな出来事があって、初めて、やっと方向転換出来たわけですから。

 結局、人間アタマをぶつけてみなけりゃわからないことがあるものなのでしょう。福島の原発の件などもその例の一つでしょう。

 中には、アタマぶつけるのが1、2回どころか、3回、4回、5回(統一教会ではアタマをぶつけることがしょっちゅう起こる)・・・10回ぶつけても、コブだらけ、血だらけになっても悟ろうとしない人がいる。そんな人は自分は真理を知っていて当然、救われて当然、上に立って当然、というような思い上がりが肥大化して凝り固まってしまっている状態になっているのではないだろうか。それこそが神が打ち砕こうとしている「我」ではないのか、という気がするのだが・・・。

 今では、統一教会で霊的エリートなんて自認してる奴なんか見ると、「バッカでねぇ~の」(映画「奇跡のリンゴ」菅野美穂のセリフより)としか思えない。




Posted on 2017/10/02 Mon. 21:21 [edit]

category: 独り言

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霊界統一原理セミナーの嘘:スウェーデンボルグのメッセージの嘘  



 「李相軒先生が霊界から送ったメッセージ 11 神様は人類の真の父母」(光言社) (リポーター:金英順)に霊界で統一原理セミナーを受けたキリスト教代表人物の一人に「エマニュエル・スウェーデンボルグ」が挙げられている。その中でスウェーデンボルグが所感を述べているのだが、これはもう全くの嘘である。と思う、ではなく嘘、デタラメである。
 金英順はスウェーデンボルグの本、一冊も読んだことないのではないか。あるいは、李相軒のメッセージの内容がスウェーデンボルグの霊界報告のパクリとアレンジとバレてわかってしまうので、信者が深く研究しないようスウェーデンボルグをわざと無能な霊能者に貶めているのではないか、という疑問さえ浮かんでくる。


 金英順によると、スウェーデンボルグが霊界での統一原理セミナーを受け、こんな所感を述べたことになっている。
『私、スウェーデンボルグは地上にいる時、霊界の実相をたくさん体験しました。地上にいる時も神様の実存を様々な面でたくさん体験しました。ですから、無形世界に対して少しも疑ってみたことがありませんでした。しかし、無形世界が実体世界と同じ姿で永遠の世界として永存しているという事実は知らずにいました。』

 スウェーデンボルグの著作には、人間があの世にいっても自分が死んだことがわからないくらい以前の感覚と同じだ、と何度も指摘しており(だから自分の知ってる先祖とか知り合いが迎えにくるのですよね)、例えば『天界の秘儀』には、

・天界の秘義
他生では人間の霊は世にいたときと絶対に同じように人間の形をとって現れている。彼はまた世にいたときのように、見、聞き、話し、感じる能力を楽しみ、世にいたときのように、考え、意志し、行動する能力を与えられている。約言すると、彼は世でまとっていたかの粗悪な身体をまとってはいないことを除いては、各々の、また凡てのものの点で人間である。かの粗悪な身体は彼が死ぬとき後に残し、再びそれを決してまといはしないのである。

 永遠の世界というのも、あらゆるところで記されているが、例えば『天界と地獄』には、

・天界と地獄
「人間は死後その意志または支配愛のあるがままに永遠に生きる」こともまた豊かな経験から確認されたのである。二千年前に生きていた者で、その生活は歴史にも記されているため私の知っていた者と私は話すことができたが、彼らは全くその記されているままに、依然彼ら自身に似ており、従ってその生活の源泉ともなり、基準ともなった愛は同一であることが明らかになったのである。

 『今、スウェーデンボルグが地上に残した無形世界の経験的理論は、全く根拠がないので、「そのはずだ」という推論的なものだけが、それも限りなく一部分だけが記録されているのです。』

 そのような「こうだろう」みたいな推理などではなく、確信を持って、決意を持って、使命感を持ってやっているのが、下記の『天国の秘儀』と『天界と地獄』の引用から理解出来ると思う。

・天国の秘儀
多くの人は、肉体を持つ人間として生きたまま、霊魂や天使たちと話をしたりすることは誰にもできないというに違いない。私はそのことをよく知っている。また、多くの人がそんなことは幻想だというのも知っている。私がそれが可能な証拠としていろいろ話しても、他人は反論するに決まっている。しかし、こういうことで私はおじけづいたりはしない。なぜなら私はその霊魂たちを見、彼らのいうことを聞き、彼らに触れて感じてもきたからだ。

・天国と地獄
今日の教会関係者は天国や地獄、自分の死後の生のことはまるで知っていない。聖書の中にそれが書かれているにもかかわらずだ。実に教会関係者の家に生まれた者でさえ、本心から「あの世からやって来てわれわれにそんなことを話してくれた人なんて一人もいないではないか」という有様なのだ。世間的には賢者とされる者の間にこのような拒否が浸透している。だからこれが心素直で、信仰深い人々の間にまで浸透して彼らを堕落させることなきために私には天使たちとつき合うことが許されたのだ。天使たちと人間とつき合うのと同様につき合い、天国や地獄でのことを見聞し、それを描くことが私には許された。世間の無知と不信心を一掃させんとの願いからに他ならない。

 限りなく一部分だけが記録?意味がわからない。

・国際臨死体験研究会会長K・リングの評言
「スウェーデンボルグは自らの個人的体験を踏まえて、現代の臨死体験が発見したものを先取りしているようだ。彼が多くのことを語りえたのは、真にまったく異例なことなのだ。臨死体験者たち本質的に死の入口をかいま見たにすぎない。彼は死という家全体を探索したのだ。」

 スウェーデンボルグは大科学者で貴族院の議員でもあったのだ。そんな名声もある彼が世間に精神異常者のそしりを受け、異端宣告を受ける直前までいっても信念を曲げなかったのは、そこに十分な確信があったからだろう。とても根拠のない推論で出来るものではない。

 『それで、目の不自由な人にも無形世界へ尋ねてくることが出来るようにその道を開いたので、人間にこれ以上の福音がどこにあるでしょうか。』

 ん?急に何。これはもしかしてヘレンケラーのことなのでは?ヘレンケラーは知らない人もまだ多いかもしれないが、スウェーデンボルグを大変尊敬し、その教えに傾倒していました。
 昔『ヘレン・ケラー光の中へ』(出版:めるくまーる)を読みましたが(現在手放してます)、ヘレンケラーはスウェーデンボルグの信奉者と言っていいと思います。確か「人間の責任分担」という言葉があり(で、購入した)、責任分担て原理だけの言葉ではないんだと思った記憶があります。最近、直のタイトル(原題かな)『私の宗教: ヘレン・ケラー、スウェーデンボルグを語る』として新装版が出ていますが、訳の違いでしょうか責任分担という言葉はないようです。ヘレンケラーってただ三重苦のかわいそうな人というイメージを持つ方も多いかと思いますが、本を読むとその教養の豊かさに正直驚かされます。・・・(話がそれました)・・・道を開いたのはスウェーデンボルグであり、『統一原理』と『統一思想』ではありません。

 『私はそれが地獄だということをたちまち悟りました。光はまさしく神様であられ、神様はスウェーデンボルグに地獄を見せて下さり、「あなたが彼らを救いなさい」と要請なさったと考えました。無形世界には地獄というものがあるので、人間は罪を犯せばこちらに来るとお教えになられたのです。しかし、本当に惜しいことに、スウェーデンボルグはそれを悟ることが出来ませんでした。』

 もはや「何を言ってるのかわからない」(サンドウィッチマンより)。善人は天国が心地よく、悪人は地獄が快いから自ら選択し行く、というのがスウェーデンボルグの一番有名な話ではなかったか。

・天国と地獄
死後も人間の意志や愛情は残存している。この世において悪を意志し、悪を愛した人間はあの世でも同じ悪を意志し、愛することになる。彼らは悪から引離されることはあの世でも欲しないのだ。悪に染まった人間があの世で地獄に行く理由はそういうことであり、彼の霊は死後といえども自分の欲する悪の存在するところ以外は行こうとしないのだ。だから彼は死後は自分自身を地獄に投げ入れるのであって、彼は主の手に自分を預けようとはしない。

 「泥棒は世界はみなが泥棒し合う世界だと感じている。そして同じ世界なのに芸術家はその世界には美が満ちていると感じる。」「天国(霊界)ではこれと同じことがもっとはっきりした程度になって現れるのだ。」(霊感者スウェデンボルグその心理学的・心霊科学的研究ウィルソン・ヴァン・デュセン( )は引用者)。そしてこの世では隠せていた本質的な自分をあの世では隠すことができない、というのが、スウェーデンボルグの従来の「人間は罪を犯せばこちら(地獄)に来る」みたいな天国・地獄観を超えた革新的なメッセージだったはず。

そして、悟ことができないどころか、スウェーデンボルグは、何とか人間を天界へ導こうとしている。

・天界と地獄
天界に入る生活を送ることは、一般に信じられているほどむずかしいものではない。自分では不正直で不正だと知ってはいても、その方向に心が動いてゆくとき、それは神の教えに反しているから行ってはならない、と考えさえすればよいのである。そのように考えることに慣れ、その慣れから習慣を確立するなら、人間はしだいに天界と結合してゆく。そして天界と結合すれば、心のより高い領域が開かれ、そこが開かれるにつれて、不正直や不正が何かが見えてくる。悪が見えれば見えるほど、それを追い払うことができる。

・聖なる摂理
人間とのかかわりの中で、聖なる摂理はいつも人間の最終的な状態に配慮しているものだということは知られていない。摂理はそれ以外のものを念頭に置いていない。なぜなら聖なる者は無限で永遠だからで、無限、永遠、聖なる者は時間に縛られていない。だから聖なる者には将来のことでもみなそれがいまのことなのだ。このことから、聖なる者がすることは全てその中に永遠性があるということになる。しかし、ものを時間や空間といった観念で考える人間にはこのことがわかりにくい。それは彼らが目前のことを好むというだけでなく、この世で手の届くことから考え、天国のそれから考えないためでもある。そして天国のそれは彼らには地の果てのように手の届かないものになっている。しかし、聖なる者の中にある者、つまり主から考え、現在のものと同じく永遠であるものから考える人間は自分にこう問うだろう。「永遠でないものなんてそんなものがあるのか?」
・・・「その時々のものはいってみれば無とおなじではないのか?過ぎてしまえばそれは無になってしまうのではないのか?」。永遠のものはそうではない。それはただある。その実在には終わりはない。このように考えることは現在と永遠の両方から考えることである。そして人間がそのように考えるだけでなくそのように生きる時……聖なる摂理はその全ての行為において人間の天国における永遠の生に配慮し、それへと導く。


 以上この霊界からの所感が偽物である根拠を提示した。
情報統制された信者の間で、内々にやればいいものを。これ書籍にする必要があったのか。
『統一原理』を『統一思想』を真理として認め、文鮮明をメシヤと認めるということは、同時にこういうものも疑いもなく真理として受け容れるということになるのだが、その覚悟があるのだろうか。



   「嘘から真実が出ることはあり得ても、真実から嘘が出ることはあり得ない」
                                    ショーペンハウアー




Posted on 2017/09/16 Sat. 18:47 [edit]

category: 原理批判

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綺麗事で生きる人達  



 宗教・神学の研究、宇宙の真実を探る系のサイトにも、統一教会系のダミーサイトと思われるものが結構ある。あくまで一般個人の見解としているが、専門的な知識やその質、量を見てもとても堅気の人達とは思えず、おそらく統一神学の知識があり、時間も割ける専従の教会員ではなかろうかと思う。

 そういうサイトには共通の前提がある。原理とみ言(文鮮明のお喋り)が重要であり、真理はそれによって判断されるべきだと主張してることだ。
多分、想像だが、その人らはずっと教育関係の部門にいて、古田コマンダーを中心とした経済摂理のとき関与してなかったんだろう。悪事には手を染めておらず自分達は賢明で清かった、みたいな教会の中での一段上の選民意識がちらほら感じられる。教会内スラングで「み言馬鹿(みことばか)」って奴だ。
 経済摂理(霊感商法等)の事は与り知らぬことであり、僕らは彼ら(古田中心の経済組織)と違って原理を語る資格があると言わんばかりだ。

 しかし、原理・み言が重要と言ったところで、統一原理も統一思想もあくまで推論でしょ。推理、思考の手続きの一つに帰納法があって、その帰納法の一種に仮説演繹法というのがある。
 

仮説演繹法 : Hypothetico deductive
 

ある現象を説明できる理論や法則を得るための科学的な研究方法。帰納法によって仮説を立て、演繹法と帰納法を組み合わせて仮説を検証する。例えば、ダーウィンの進化論はこの方法に基づいて提唱された。
手順としては、まず収集したデータ(聖書、歴史、日帝支配・・・)をもとに帰納法を用いて、現象をうまく説明できそうな仮説を立てる。この仮説は法則を表す命題(神がいて文鮮明が再臨主)や公式の形(四位基台、蕩減、信仰・実体基台、3段階、後先の法則・・・)をとる。次に、仮説を検証するため、演繹法を用いてこの仮説を具体的事例(旧約聖書、イエス以後の歴史)に当てはめ、「仮説が正しければこうなるはずだ(文鮮明がメシヤで韓国が選民国家、世界の中心)」といった結果を予測する(結論付ける)。最後に、実験や観察を行い、予測を裏づけるデータが得られれば仮説は正しいとされる。 なお、仮説演繹法では最後の予測を検証するプロセスが帰納法となっている。そのため、検証結果が予測通りであったとしても仮説は確からしいというレベルに留まる。
(コトバンク:仮説演繹法より引用)


※(  )は引用者が説明のため入れました。

 統一原理は、演繹と帰納が組み合わされたこの仮説演繹法によって、理論の証明をしているのがわかる。ただ統一原理の場合は、仮説の部分が韓国人の妄想で出来ている「妄想演繹法」(造語)になっている。
 次に理論を立てたら、今度は本当に真理か否か実験で検証されなければならない。彼らが言う原理・み言だけでは論理上不十分なのだ。統一運動というのは、はからずもその社会実験であったのだ。で、イエスの公生涯3年の20倍期間待ち文鮮明は死亡し復活もせず、もう十分検証され結果が得られたんじゃないか。
 人の真意は行動に表れる。人を見るのに言葉だけで信用しないで、行動を見て判断する-人類の集合知-が発動して判定を下しているように思う。「統一教会は何か変だ。おかしい。」と。
皆、信教の自由があるのでほっといているだけだ。

 彼らは文教祖の儒教生まれに対して屁理屈な説明をしているが、そこまで突っ込むなら、霊感商法も、清平の摂理も、金英順の霊界通信の嘘も、格菴遺録も、金日成が死んだと予言めいたこと言って翌日生きてたり、自分の長男のマッチングを他の霊能者に頼んだり、ハニートラップも、六マリアも、従軍慰安婦も、何故幹部がアメリカ行ったらラスベガスにいくのとか堂々と原理的・摂理的説明をしてほしいものだ。

「・・・それは蘇生期の人間に対応するためであり、その際各々の国による蕩減条件も関係してくるのであり、またその期間も八段階を一歩ずつ登らねばならないため、サタンは屈服したが手下がおり一人一人信仰が試される試練も与えられる理由はそのためであって、その為ホームチャーチとは、お題目だけ掛け声だけで誰もやらない結果そのようなものになると考えられ、サタン世界を隅々まで体験しなければ理解できない故に、ギャンブルもやる必要があるという正当な理由もそこに発生するのであり・・・」

勝手に想像してますけど、そんなの読んでみたい気がする・・・しないか。

 「理屈と膏薬はどこへでもつく」という諺があったっけ。





Posted on 2017/09/14 Thu. 23:56 [edit]

category: 原理批判

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